2014年11月21日金曜日

百代の過客。

「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり。」


という某俳人の頭文通り、時間はとどまりません、どんどんどんどん過ぎていきます。
12月は師走、とにかく慌ただしい、時間が過ぎゆくのが早いイメージありましたが、夏が終わってからの11月までも本当にあっという間でした。

今はもう晩秋。もう年末年始が迫ってます。


めまぐるしく月日は巡っていくのですが、大小ありけり変化も確実にあります。

絵も少しづつまたは大きくも、変わっていきます。止められません。
そうしたい、という欲求のまま、進んでいきます。


12 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

時はめぐり、たしかに春はやってきた。
街歩きにコートも着ていられない、麗らかな暖かな日和の卯月3日。
今年も東儀恭子先生の作品を鑑賞するために
日本橋三越の恒例の「春の院展」に出かけた。

「三つ巴」という画題の作品。
今では、遠目からも恭子先生の作品はすぐに分かる。
それだけ御自分の作風を築いているということである。
印象的な黒を背景に
華麗な色彩の布をまとった3頭の外国生まれの痩身の犬たち。
だが、彼ら犬たちはどうやら主役ではない。
犬たちが羽織った古典的な文様の描かれた布の
白、赤、茶色系の鮮やかな色彩のバランスが、まず、目に焼きつく。
この作品においては背景の黒も寡黙ではない。
黒もまた華やかな色彩に輝いている。

ここで「待て、暫し」と考え込む。
黒とは色彩なのか?
少なくとも、
赤や黄色などの他の色彩と同じ範疇のものでないことは素人にも分かる。
黒とはあらゆる色彩を呑み込む宇宙のブラック・ホールか?
光り輝く、躍動する生の世界を生み出す、諸々の物、諸仏の根源としての「玄」なのか?
そういえば、玄とは「くろ」とも読ませる。
黒とは何か?
黒が不可解に見える(思える)のは、
彼(黒色)が闇や影と同一のように思われる、見られることがあるからかもしれない。
闇としての彼(黒色)は、光の加減に応じて、他の色彩をあるいは呑み込み、
あるいは吐き出す。
闇としての彼(黒色)は、この場合、
状況に応じて(あるいは自ら歓喜して遊びながら)
変幻自在に変化する色彩の一形態になる。
従って、闇としての彼(黒色)は、この場合、それ自体としては存在しないことになる。
光の加減を超えて、絶対的に存在する彼(黒色)こそが
根源としての「玄」であるかもしれない。
東儀恭子先生の作品の前で、
ひとりの物好きな素人がぶつぶつ心の中でつぶやきながら
物思いに耽ったのでありました。

「三つ巴」という画題と3頭の犬。
多分、作者が3という概念を出発点に置いているらしいと想像する。
2なら割り切れるが、3は割り切れない。
4は四角四面で動きが取れない。面白くない。
2は対立、陰陽、明暗など両極の間に無限のグラデーション(段階)があっても、
実は概念としての両端に過ぎない。
3はもう少し複雑だ。
そこに別の概念、見方を持ち込むから調和をもたらしてくれる。
そういえば、人間関係だって、
2人だと、しっくりいくことは多いが、緊張関係も生まれる。
3人だと、微妙に間合いやバランスがとれるという場合もある。
作品を前にして、また、
物好きな年寄りが物思いにふけったのでありました。

家に戻ったら、お隣の庭で
春の先触れとなった早咲きの「千年桜」の花びらがはらはらと散っていた。
よそのサクラはまだまだ盛りと咲いているのだから、
そんなに散り急ぐこともないであろうに・・・
「早咲きのサクラ早々散っていく」
そんなに律儀でなくてもいいのに。
自分の庭では植木鉢のチューリップが咲き始めた。
チューリップたちにとっては、今、ようやく春が始まったのだ。
花にとっては春は一様ではないらしい。
時間というのは一様ではない。
早く来るとかまだ来ないとかの、前後も一様ではない。
速く過ぎ行くとか、ゆったりと流れるとかの、長短も一様ではない。
早いも遅いも、短いも長いも、
その時間を生きる人や生き物によって、様々である
時計の文字盤の時間だけが、人間や生き物たちが生きる時間ではない。
人間も、サクラも、チューリップも様々な自分の時間を生きている。
時間というのはあるようでもあり、ないようでもあり、
しかし、確実にめぐっていく。
芸術家ご夫妻には、爽やかな、輝ける春が
ゆるやかに流れることを念じつつ。
20150404(春の物思いにふける閑人)

匿名 さんのコメント...

追伸、4月5日のNHKテレビ「日曜美術館」で「琳派」を特集していました。
あるいは、先生もご覧になったかもしれませんが、
杜若図と紅白梅図を中心にして、
千住博画伯もアトリエでの創作の様子を公開しながら出演されて、
なかなか中身の濃い番組でした。
光琳を私流に眺めると、光琳の本質とは「意匠」と「装飾性」ではないかと感じました。
意匠とは、芸術家の精神、創造性、表現への情熱。(月並みでないということ)
装飾性とは、脱現実世界、無地に美の快楽の花を展開すること。(写実を超克すること)
私流の解釈の中では、東儀恭子先生の作品は、いつも
琳派の流れを追及し、紛れもなく、その流れの中にあるように感じています。
今回の「三つ巴」もそうだったなと、あらためて感じています。
20150406(閑人)

匿名 さんのコメント...

梅雨らしいお天気が続いて草や木たちが生き生きとしている。
それを見る者もその緑に染まって生き生きとする。
降ったり止んだりの7月5日、すっかり恒例となった青山のサポサポ応援作品展を見にでかけた。
全く残念、
東儀恭子さんの作品はどれも売り切れて拝見することができなかった。
開催3日目の最終日だから仕方ない。
売り切れの札に書かれた画題を眺めて「どんな作品だったのだろうか」と思いをめぐらせた。
作品が多くの人に評価され、好まれ、買われていったということは
作家のファンの一人としては嬉しいことだ。
そう考えて作品を見逃した淋しさを慰めながら
しっとりとした梅雨空の下を傘をさしたり、つぼめたりしながら帰った。
傘のひと。20150705

匿名 さんのコメント...

梅雨の終わりの強い日差しの日に横浜の彫刻4人展「88」を拝観した。
東悟史先生のLivestockシリーズは新旧ともに迫力があり、充実感にあふれていた。
力作に囲まれた会場での4人の先生によるお話は大変充実していて興味深かった。
それぞれの作品にこめた作者の制作意図やご苦労もよくわかった。
何より門外漢の私に意義深かったことは各作者の熱意、情熱そのものだった。
その情熱は作品に注がれているのだが、同時に人生そのもの、生命そのものに注がれていると感じた。
それ自体では本来、無色、無形の生命に鮮やかな色彩と形態、意味を注ぎこんでいる。
作者自身の、そして作品の、さらに見る他者にも・・・。
4人の作者はその生命の最もあふれた壮年期を充実して生きている、
まるで戦場で武者震いしているサムライのように感じられた。
お陰で力強いエネルギーをもらったようだ。
また、彫刻を少し違った目で見ることができるようになったと感じた。
私に同伴した者も多分、それなりに感じるものがあったように思えた。
益々のご活躍を!
     お話する東儀さんの気が散らないように、
     サングラスとマスクを持参するのを忘れてしまったドジな男。
          20150711

匿名 さんのコメント...

7月17日、日本橋高島屋で東儀恭子先生のグループ展を観る。
「隠国」と「HISTORIA」。
鹿は神々しい。
茫洋として苔むすような古色蒼然たる大いなる体躯。
角が素晴らしい。まるで草薙の剣のように凛然としている。
神の御使いではない。神なのだ。
この生きものはいつものように私を古代の神話の世界に誘う。
東儀恭子画伯の瞑想の世界へと誘う。

「ヒストリア」は趣きが違う。
華やかな色彩がちりばめられている。
二頭の犬は男と女か。夫婦?それとも恋人?
豪華な花束のようにラッピングされ、祝福されてこの世にあるというのに・・・
左の女犬はうつむいて過ぎたる時間を反芻している。
懐疑?後悔?否定?
右の男犬は前方を見晴るかしている。
男は単純だ。自分にも、彼ら二人にも、まるで未来があるかのごとくに。
同じ空間に居ながら思いは違うのである。
宗達の風神、雷神、光琳の紅白梅図のような対の趣きもよい。

絵画の中に時間も描かれている。
画題の歴史や時間を実感することができる。
ダリの時間は理屈っぽくて私にはとても美を感じることができないが、
恭子先生が描いた時間には絵画としての華やかな美しさがある。
怜悧な知性は美しさの裏にひっそりと隠されて目立たない。
今日、東京も梅雨明け。
暑中お見舞い申し上げます。
             徒然なる草   20150719

東儀恭子 さんのコメント...

Anonymousさま
春からの展覧会の返信、今ここでさせていただきます、
本当に遅くなりまして申し訳ないです。
特に筆無精、というわけではなく、どちらかといえばマメな方でしたが、恐竜のようなでかい体に対して脳が小さいのか、考えがまとまらない時はグズってしまって大変遅くなった次第であります。

ですが、春から夏までの絵の毎日、色々と描き、またまとまりだしたので、こうしてこれからの展望も含めて返信します。絵を作りつつ考えていく、この時間がとても尊敬する物書きさんと比べるとゆっくりしすぎていて、本当に申し訳ないです。ですが、どうか今後共ご高覧よろしくお願いいたします。

私が犬を描いたとき、犬自体を描いているか、といえばそうであるとも言えるしそうでないとも言えます。やはり絵は文や小説と同じく、暗喩として表現すること多々あります。それが比較的わかり易く楽しめるものもあれば、わざとわかりにくくして絵を楽しませたい、という作家の意図もあります。
院展の絵は後者でした。おっしゃるとおり、犬と言うには文様が見える、犬を通して人を描きたい…云々…(ここからはまた隠しますが(笑))

いつも匿名の物書きさまの絵を見る視点には驚かされます。造詣的な視点も持っていることも必要、またそれ以外に自分の持っている視点や世界観から感性をフルに使って絵を見ようとしている姿勢は、絵を描く人ももっと学ばなければならない、そう感じます。

初秋、雨上がる日の午前にて
東儀恭子より

東儀恭子 さんのコメント...

続き)
日本の美術の歴史で良い所は、普段使いの中の襖絵、屏風その他に(もちろん上流階級におけるしつらえですが、かの職人さんたちはその意向を組むくらいの理解力ある、造詣深い人もいたわけで、)
それが技工だけでなく、暗喩的でミニマルな、「省く」「最小限の表現」の美なるものを解釈していたこと、そのことが今更ながら、日々本読んだり教えたりしての勉強することによってより明らかになっていく(私自身の中で)ことが新鮮でたまりません。
そこまで高まったものに対し、今の美術はどうなんだろう、と考えたりもします。今は表面的な技工や説明的なものが評価されたりもします。
一度極まったものは解体して、すごく説明的な絵、というのも面白そうですが。でも、そこまでの覚悟は無いかとも思います。日本ならではの感性なのでしょうか。会話の中にも含みを持たせますものね。言語がそもそも説明的でない。
だったら現在のモチーフや感性で、ミニマリズムを追求するのもアリですね。

現在の評価も大事ですが、でも現在評価されることのリスクも感じます。評価する人の内容を問います。
こんな考えは若い時には出来ませんでしたが、40代になってまた考え、というのは変わっていくものなんですね。思考というのはつくづく自由でありたい、その人の経験や仕事など規範を元に自由に飛ばせるものだな、と思います。

東儀恭子

東儀恭子 さんのコメント...

Anonymousさま

いつもsaposapoにお越し頂いて有難うございます。また、基金にも参加していただいて、本当に有難うございます。
今回のは珍しく先行して売れていきました。個展や高島屋グループ展などで忙しかったのもあり、また主人もグループ展で忙しく、夫婦で会場にいること出来ず来ていただいた方にお礼を言えない状態で申し訳なく思っております。

作品はこちらに投稿してあります。Anonymousさまから言わせると忌まわしきSNS媒体?(勝手な認識ですが笑)のアルバム内にありますので、見れるかどうかわかりませんが、取り敢えず貼り付けさせていただきます。アジサイの絵と、木板に描いた植物です。
支持体を変えるだけでまた描き味が描きて側からすると違ってくるので、新鮮に描きました。
https://www.facebook.com/kyoko.togi/media_set?set=a.850856204991653.1073741830.100002018440868&type=3

また、どうぞよろしくお願い申し上げます。

東儀恭子

東儀恭子 さんのコメント...

Anonymousさま

東儀悟史グループ展「88」にお越しいただき、有難うございます。
私が言うのも何ですが、良い展覧会でした。近年の彫刻グループ展の中でも画期的な展覧会だったように思いました。
単純に比較は出来ませんが、彫刻というのは奥行きを平面に投影する絵とは違い、重力が常に付きまといます。そのことで彫刻を学ばれても、彫刻家としては辞めていく方も多くおります。(ですが彫刻を学んだことは他で必ず生かされるのですが)(デッサン(多分数学も)と同じで社会生活での応用は広義でも狭義でも、いくらでもあります)
それが同世代、同じ小さい美大予備校(画塾みたいなものです)から4人も続けていてキャリアも積んでいる、というのは稀なことです。
彫刻を好き、というよりは愛を感じます。

主人は作家でありながらもどこか研究者のような風体も最近出てきました。オタクが過ぎると色々な探究心が出てくるようです。もともと絵かきのお父さんを持つゆえ絵もうまいのですが、最近CG彫刻とともに以前より風景などの絵も描くようになってきました。
私はというと、ようやっと塑像なるものをやってみようか、と考えております。10年一緒に住んでますが、絵のことで手一杯、余裕なく、また立体はやるとバカにされそうで(笑)やってきませんでしたが、バカにされても良いからやってみたい、学んで自分の考えがまた先に行けるのでしたら、という欲の方が強くなってきました。
また主人の方から遅かりしお礼と、お話できれば、ということでしたので機会伺ってお礼に行きたいと思っております。

東儀恭子


追記/また、変装はされなくても良いですよ、とのことです笑 (1on1では人見知りしますが)大勢相手では特に緊張も無いですよ、とのこと。

東儀恭子 さんのコメント...

Anonymousさま

いつもご高覧くださいまして、重ねてお礼申し上げます。有難うございます。
春の院展から、グループ展を経て今現在行われています秋の院展まで、上半期の制作となりました。
ここから考察して、また次回のステップに行けるような地盤が出来たように思います。
発表、というのは作家にとって大事なもので、ここを経てやっと客観視できるように思えます。
一枚一枚の絵は造形的に客観はしているのですが、大衆の目に晒して、ご意見を聞いたりしてやっと自分の中で客観視出来うるような感があります。長い作業です。

高島屋グループ展の考察
「隠国」鹿の絵は、自身の中では完成(言い切り)が比較的高く出来、ひとまず結果が出せたかのように感じます。次のステップに行けそうです。これはこれで自分の中で大事な題材ですが、別の形で次回はまた大きな山として挑戦したいとも思っております。

「ヒストリア」犬の絵はまだまだ広がりを自身では感じます。ああもできるんじゃないか、こうもできるんじゃないか、と色々考えたりします。こちらは10年も犬を通して描いてますが、まだまだ魅力ある題材だと思ってます。含み多く出来るものの、でももっと確信もってダイレクトに伝えたい、そんな表現ないかどうか、考え中です。

下半期からまた何年かかけては、まとまってきました。一気にその思いをここで書いてみたものの、ちょっとした不具合で今しがた全部文章が消えてしまいました。
これは伝えない方が良い、まだ早い、とどこかの誰かが消したのだと判断しまして(笑)ここには書かないことにします。これからの作品の楽しみとなるよう、一層日々精進していきたいと思っております。

お隣の大家さんが夏に新刊を出して、一家に一冊頂きました。(主人が先行して読んでます)
いつもお若く、分野は違えどそのバイタリティに夫婦共々刺激を頂いております。偉大な先輩です。
そういう人生に憧れてます。私達も追随して頑張りたいです。
(私たちには素敵な完璧な奥さんがいないのが残念なのですが笑)
そろそろ家の庭木が怪しく茂ってきました。そろそろ天気も良くなってきたので、刈ろうと思ってます。

初秋午後にて
東儀恭子

匿名 さんのコメント...

暦の上で夏が過ぎ行くと、記録的な猛暑もすごすごと後ずさりしていくようだ。
まだ、蒸し暑さが残る曇天の日曜日に上野の都美術館に秋の院展を見に行く。
東儀恭子先生の作品を見るために同居している女性も久しぶりに同行した。
1番目の展示室から順番に歩いた。動物を画題にした作品もいろいろあった。
私は会場を歩きながら同行者に知ったかぶりの講釈をした。
勿論、小声で。

「恭子先生の絵は他の作品とどこが違うか?
多くの作品は動物を写実に、写実に描いている。
主題の動物に対する作者の思い入れも描く努力はしている。
しかし、いくら丁寧に描いても印象が薄い。ぼんやりとしている。
動物の周りの部分もきっちりと描きこまれている。
でも、画面を描きつくして余白がないということは、
作者の眼に余白がない、見る側の眼にも余白がないということになる。
余白は主題を浮き立たせるだけではない。余白は余韻でもある。
少なくとも見る者にとっての感動は、
描かれたもの自体からも勿論生じるが、
同時に描かれていないもの、
つまり、絵を前にして自らの内から湧き上がる感興によって生まれるものでもある。
それが余白の部分だ。
この場合、見る者は開示された美の単なる受身の受容者ではなく、
余白を介して美に創造的に、能動的に関ることになる。」

そのうち、12番目の展示室に至る。
「どうです。違いがわかりますか?他の絵とは全然違うでしょう。」
私はまるで自分が作者になり代わったように自慢げに同行者に話す。
「隠国の」という画題は作者にはすっかり馴染みのある世界だ。
堂々たる体躯と角をした神々しい大鹿。
金色と黒色、深い青の角の侵し難い色彩はその神性を際立たせる。
まるで、さり気なくざらっと描いただけのような体は古色と自然の荒々しさ。
この作品は明るさが特に印象に残った。
薄い緑色の若葉が一面に広がり、所々にオレンジ色がかった木の実が見え隠れしている。
この木の実が爽やか緑の世界にリズムを与え、軽やかな音楽を全体に奏でている。
周囲の明るい色調と音楽はきっと作者自身の創作時の浮き浮きとした愉しい心情と
生命力の知らず知らずの投影なのではないかと、つい想像してしまう。

「作者は何を描こうとしたのだろうか?」
知ったかぶりの素人は同行者にまた話しかける。
「鹿を描こうとしたのではない。
木の葉を描きたかったのでもない。
赤い木の実を描きたかったのでもない。
私が想像したのは・・・空気を、ある心的状況を描こうとしたのではないか。
作者は俗物には近寄り難い、人里離れた侵すべからざる神聖な域の空気を描こうとしたのではないか。
この作品の前に立つ時、たとえ俗物であっても、見る者はその眼で深山の空気を感じる。
聖域の静寂に耳を澄ませ、軽やかな音楽を心で聴く。」

心で感じる世界、憧憬の世界、精神的な体験とでも言える心域を描いたように思えた。
いつものように芸術家の明晰な知性と強靭な意志力、造形と色彩の繊細な感覚と技を垣間見ることができてとても嬉しかった。
    20150905  (勝手な応援団)

東儀恭子 さんのコメント...

返信が遅くなること、度々失礼致します。
もう秋院展制作から3ヶ月が過ぎようとしてます。
大きい絵を猛暑に描くのは大変な体力、経済的負担と労力がかかり、正直しんどい、というのもありますが、大きい絵に取り組むことによって色々わかる、絵のことも自分の思いも考えも、発見が多いので続けてみよう、というのも本音です。

Anonymousさまは絵の拝観者としてとても優れていると思います。
なぜなら、絵はどう観るか、というのが作者の想いもありますが、観る人の想いも増幅装置となって、より奥深く観ることが可能だからです。だからこそ絵や芸術は面白いと思います。小説、本の世界なども同じでしょうか。
もちろん1枚1枚好きな絵、嫌いな絵と感受性で受け止めても構わないのですが、美術史を知っていると、なぜこの絵が今現在描かれているのか、考察からまた観れると楽しいです。現在この時代においてどうなのか?それも音楽など(指揮者によって違うとか)(以前流行った音楽がまた再熱等)、そんな感じと似ているのでは無いでしょうか。
知識ある人にも、まだ未熟な人にも開かれている、芸術は観る人にも作り手にも大らかに門戸を広げているような感じします。
作り手は、技術は未熟で良い(自分が必要だと思う技術を切磋琢磨すれば良い)のですが、それなりの覚悟が必要です。自分にとって生きていくために制作が必要不可欠だ、という覚悟でしょうか。色々弊害や障害あってそのたびに辞めるのか辞めないのか、という選択をいつも突きつけられる感じです。
観て側は如何ように観ても良いのですが、ある一方からの独善的になると観るのが面白くなくなりますね。だからこそ色んな知識や感性あるとより見方が開かれます。面白くなります。
最近そんな本を読んで、そうだな、こんなことなんだな、と思いました。

また絵、描きます。その時もまた厳しくもかつ面白い観方のご感想、ありましたら楽しみにしております。

東儀恭子

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