何となく、言葉に。取り留めないモノを。
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不安 「ふあん」。
漠然としたもので、何かしら付きまとう。何をしても拭いきれない。
目標を持って挑んでも、目標に達するまでは不安。だが、希望は持てる。希望を持って、目標に挑む。
しかし結果を出してもまた次の不安。結局ずっと付き合っていくものでしかないのか。
不安の無い状態を想像するのもまた不安。
対して
安心 「あんしん」。
心の安定。穏やかな。不安は付きまとうが、この安心感で乗り切れる。
かけがえの無い存在、自分自身が頼れるより所。絶対的な信頼感。
ある人は異性に求めたり、宗教により所あったり、家族・家系の支え、自分のやってきたことへの自信だったり、様々。
誰にも話したことは無いけれど、たぶん誰にでも必要なものだと思う。
安定感ある人はそれがある。これがあると不安と戦っていける。
4 件のコメント:
麗らかな春の陽気に誘われて街に出た、
と書きたかったけれど、
今年は杉花粉や黄砂にまじって隣国の汚れた大気も飛んでくる。
マスクをかけて都心に出かけた。
日本橋・オンワード・ギャラリーでの
「カランテンヌ展」を見るためだった。
新グループ展の説明とは言いながら、
案内状の作家名の後に皆、生年を記してあったのは可笑しかった。
作者によっては、さぞかし勇気が要ったろうにとか、
いいや、もう気にしないのかな、などと思いめぐらせて。
「Dash」は犬の世界でもサッカーが盛んだという
現代版の鳥獣戯画のように感じられた。
長髪を風になびかせ汗をほとばしらせて走る犬たち。
生きるものすべてに若さや力、夢などの生命力がある。
スポーツも生活の中のあれこれのことも多くは祭りである。
祭りの中にある者は遊びの夢中にあって、
それが遊びの祭りとは気づかないが、
遊びの祭りのないままの生き方はただ淋しく空しいに違いない。
「Rose」花を主題とした作品には
随分久しぶりにお目にかかった気がした。
一輪の深紅のヴェルヴェットのバラの花は
濃淡の翳をやどして妖艶で肉感的だ。
花びらをなぞるような、かすれた極細の金の輪郭線は
まるでずっと昔に忘れたはずの遠い日の記憶のかけらが
消え残って意識の底によどんでたゆたっているかのようだ。
心にひっかかる、響くのである。
背景の黒も印象深い。闇は眠らず、深く物思いに沈んでいる。
次に、代官山の「サポサポProject展」を見にでかけた。
被災地を支援しようという心意気とともに
多彩な芸術家たちの夢と活気があふれていた。
ここでも東儀恭子先生の花と犬をテーマにした作品に出会った。
花の二作は小品ながらともに色彩も線もとても繊細で
作者の大作の特徴がよく表われているように思えた。
そのうちの一枚は枯れかけた紫陽花の絵だった。
末枯(すが)れた花、尽(すが)れた花。
すがれた花には漢字はどれも似つかわしくない。
「す」は多分「枯れた」の接頭辞でしかないのだろうと
自己流に解釈することにした。
…「す枯れた風情のあじさいの花」。
「花は散りたる後はうたて(汚らしく)ぞ見ゆる」
枕草子(清少納言)か、それとも
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
…垂れこめて春の行方知らぬもなほあはれに情け深し。
…散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ」
徒然草(兼好法師)か。
日本人の美意識も千差万別だが、私は断然、後者の立場で
先生のあじさいの花の前に佇んだのであった。
東儀悟史先生のうら若い女性をモデルにしたデッサン画と
鶴の木彫りも人目をひいた。
木彫りは小品ながら流石に確かな腕の風格を感じさせる。
粗い鑿跡が心に親しく響く。首の緑青の色が何ともいい。
「鶴首して人を待つ、迎える」という言葉を思い出しながら、
こういう作品を玄関先に飾って客人を迎えるというのは
面白い趣向だろうな、などと思いをめぐらした。
茶人が茶室に客を迎える心になって。
それから、杉花粉も黄砂も忘れて麗らかな春の心で街にもどった。
二つの展の余韻を胸に心軽やかに。
20130308 (春風子)
今年は格別、振幅の大きかった三寒四温を経て
桜が平年より十日も早く開花した。
その満開の花に心を染めて3月28日、日本橋三越デパートの
「第六十八回 春の院展」を鑑賞しに出かけた。
東儀恭子先生の今回の作品「豊樹と向かい鹿」を見せていただいた。
鑑賞や拝見ではなく「拝観する」という気持ちであった。
この画題には以前に出会った気がする。
しかし、勿論、新作である。
豊樹とは何か。
豊樹はどこにあるのか。
私の眼には「豊樹」は「宝樹」にして「聖樹」に見えた。
これは作者の夢の世界か。
憧憬のはるかな心象の大地か。
否、ありふれた日常世界の身近な路地にありながら
俗人には見えないだけなのか。
樹は空しい喜怒哀楽を抱いて傍らを通り過ぎる様々な老若男女を
愛情をこめて見守っているだけなのか。
否々、「愛情をこめて」というのもこちらの思い込みに過ぎず、
樹は人間たちの愛憎を超越して万象を唯々静謐に観照しているだけなのか。
そうだとすると、鹿たちは天なる大いなるものの心を顕す聖なる生き物なのか。
それとも、天なる大いなるものに見守られる地上にある万象か。
天なる宝樹と対する万象としての鹿たちが向き合っているのか。
樹がたわわに実らせた果実は
生きるもの、万象を育み、見守る天の慈愛の象徴に見えた。
チベットの仏画に描かれる供物台に盛られた色彩豊かな聖なる果実、
観世音菩薩が胸の前で抱く宝珠。
究極の真理にして菩薩の心としての宝珠。
その昔、飢えたイスラエル人に天から降りそそいだ食べ物のマナ。
あるいはヒンドゥー教徒や仏教徒に
天から降る生命を養う甘い水のアムリタ。
果実はどれも作為を感じさせない同じ大きさの輪郭だけの円輪で
透明のものもある。
天の心は俗人には見えない。
実在するものが全て見えるとは限らない。
見えなくても実在するものもあるのである。
天なる大いなる心はそのように世界に遍く在って人の眼には見えない。
空間の処理もとても気に入った。
作者のいつもながらの繊細な意匠が感じられた。
古い断簡の裏紙を張り詰めたような空間の細やかな陰影の色彩がいい。
静かな淡い色彩ながら、まるで狩野派や琳派の屏風絵を見るような
秘めやかな豪華さを想像させるのである。
東儀恭子先生の作品には他の作家にはないものが
沢山あるといつも感じている。
多くの他作品とは異なり、
フォルムも色彩も自然に従う写実ではなく
作者の芸術的な意匠によって確実に毅然として再構成されている。
この作品でも抽象的な円輪の果実の輪郭線や透明感の処理にも
作者の強い芸術的意志力を感じる。
先生の作品はどれも描かれたものたちの奥にある
見えないものを考えさせてくれる。
それは時には隠喩の動物に託した明快な物語性であったり、
時には全く無形の形而上学的な精神世界であったりする。
だから、私はこの作品をただ鑑賞や拝見したのではなく
拝観する気持ちで見せていただいたのであった。
2013年3月28日 (花散る里の閑人)
さくらが散り、白い花みずきの花が散り、
白い藤の花が
春愁の吐息にも似た馥郁とした深い香りを漂わせている。
爽やかに軽やかに季節はめぐり、
初夏を告げるツツジが咲いて、
そろりと舞台の中央に歩み出る。
そして・・・東儀恭子先生もまた
日本橋三越デパートという明るい大きな舞台に歩み出られた。
初日に一番で鑑賞させていただきました。
「月に日にけに」という個展のタイトルは
「古語で“毎日”という意味をもつ」という注釈がついていた。
「月に異に」、「日に異に」・・・月ごとに、日ごとに、いつもいつも。
「慰もる心はなしにかくのみし恋ひやわたらむ月に日にけに」
(万葉集 巻6)
作者の典雅な心の世界を垣間見せる言葉である。
作品中の生きものたちは、いつものように屈託なく愛らしい。
二匹の犬が紐を引き合う構図の作品は創意工夫というか、
遊び心が感じられて面白い。作者の余裕であるか。
生き物の絵を前にして私はいつも、
それぞれに「何かをしている」という仕草を見るよりも
「生きている」ということ、
「それぞれの、それなりの生」そのものを感じとる。
「現」、「疾風」、「聖」それに猫の二態には
これまでの作風とは違う新境地のようにお見受けしました。
特に「聖」が印象深かった。
目に見えないものを描こうとしている。
描かれたものの奥にある、
その向こうにある何かを見せようとしている。
まるで、ピカソの「青の時代」のように
青い犬も画伯の画境のひとつの道標になるのではないか、
との予感と期待をこめて鑑賞させていただいた。
バラの二作品も隠れた心象風景のように私には感じられ、
その意味では「聖」に通じるものを感じました。
それとは別に・・・「紫陽花」の作品に特に感銘を受けました。
いつもながら、この作品の繊細な色彩感覚は「眼の悦び」であり、
見る者の心を洗う。
先生の美的感性の真骨頂を見る思いでした。
(2013年4月24日 緑陰子)
Anonymousさま
いつも展覧会を見ていただいて、本当に有難うございます。
3月からのグループ展、4月の院展、個展にと今年の春に3回展示にて発表する機会に恵まれました。
毎回ご高覧頂いて、お忙しい中大変恐縮です。でもこうやって大切な方が観て下さる方がいる、ということは誠に嬉しい限りです。本当に励みになります。
物書きを生業にされております貴方様に文章にてご批評頂けることは、本当に光栄で、誠に感謝致しております。
動物は好きで、犬や猫も一番良く観察できる身近な動物なので、ここ10年ほど描いてきましたが、私にとってはやはり「モチーフ」なのだ、と最近になって実感しております。
「生きている」という躍動を表現出来うる、また自然(じねん)的なものとして憧れや崇めも出来る、そんなモチーフだと思ってます。
ペット動物はその仕草などで人間的な心象も投影し、飼い主のオーナー様とお付き合いさせて頂いて、家族やオーナー様ご自身の鏡のような役割も果たしている、人間の物語も表現出来うる、そんな風にも思っておりましたが、どこか世俗と離れた崇高さ、しなやかさを持ち合わせる、境界にいる存在なのだ、とも思っております。
(私のお隣の家に近年住み着いたネコ(メス)も、そんな野生に近い美しさを持っている感じです。)
金地を使った作品は確かにご感想頂いた通り、最も新作で、私の中の変化が出ているように思えました。より絞ったような、上手く言えないですが、、、、でもこれから描いていくことでまた消化できることと思いますので、どうぞ楽しみにしていてくださいませ。
花の絵は今まで日ごろスケッチなどたくさんはしていましたが、作品にする、ということは今まで依頼されたら描く、というスタンスでした。
ですが、「花」「植物」というモチーフが本当は「生きている」ことを表現するのに一番な象徴なのかもしれません。
家の庭では桜に引き続き、小さい蘭の花とバラが盛りです。次はアジサイの季節ですね。
椿といい、本当に家にある身近なものしか描いてませんね(笑)私は。
この家に住んでもう10年が経とうとしています。ゆっくりですが、絵て変わっていくものですね。無理なく変化していきつつあること、家族(主人)からの応援、助け、お隣さんその他諸々の近所での出来事や予備校の仕事など、日常がそうして変化をさせてくれることが、私にとっての本当に宝です。
色々な毎日の出来事に感謝し、また日々研鑽を積みたいと思います。
今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
御礼を込めて
東儀恭子(2013/5/13)
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