昨日、また銀座に搬入に行って来ました。
そういえば、初めて展覧会したのも銀座が始まりです。
最近は他所にも拡散しているギャラリーですが、
私が学生上がりき頃はやっぱり銀座メインでした。(今でもそうかもしれませんが)
バブル期かそれが弾けた位の時期ですが、銀座に貸し画廊ももっと多かった印象あります。
今では無くなっちゃったのも多いですね。
あんまり値段は変わってないと思います、15~30万位、大きさも駅からの遠さもピンきりですが、
頑張ってお金貯めて何回かやった経験があります。
「企画でないとやらない!(自腹は払わないゾ!)」
という、プロ意識の人もいますが、
私はどちらかと言えば雑草魂の方で、
まずは右も左もわからないから、取りあえず自己投資してまえ~
的な感じでした。(もちろん借りたりしてましたが)
企画がきましたらやるのですけどねw
まあ、やらないとわからないので。
それくらい、発表のノウハウは、先輩からの口承(笑)のように伝えられるだけで、
講義等で教わることはありません。
今はネットが普及しているから情報知ること出来るのでしょうけど。
今週、予備校の教え子がちょうど銀座で個展をしていて、
まあ、あんまり予測してなかったことが起きたので、少し不安そうだったので、相談に乗りました。
自分がやってた頃を何となく色々思い出しました。
百貨店と画廊の仕組み、気にしすぎの人の色々な誤情報や、よくわからない迷信めいた事柄もある世界ですが、
やっぱりやってみないとわからないことだと思います。
やってみて、自分がその迷信みたいなのとか誤情報を切り崩していけばいい。
けど、未だにわからないことも多いです(笑)
今回、DMを全然出しきれていません。
住所録がちょっと上手く起動できなく、不安定なのと、
また次制作にかかるので、ちょっと後回しになってしまって...。
なので、ここで告知、ご案内を。(スミマセン)
6月16日(水)~6月22日(火) 第3回 「天香佳花」 展 (銀座松坂屋別館4F/銀座)
出品作家: 小澤 愛 関本真己子 高井美香 東儀恭子 野口満一月 冨川美和子 宮下真理子(50音順 敬称略)
10:30~19:30まで(最終日17時まで)
本館のフォーエバー21は21:00までやってますw
お近くにお越しの方は、宜しくお願い申し上げます。
2 件のコメント:
「銀座・松坂屋の「天香佳花」とSHIRAISHI画廊展の鑑賞記」
「天香佳花」の展名は才媛画家の集団に真に似つかわしいものでした。
「天上の諸(もろもろ)の華の等(たぐい)たるマンダラヴァ(曼荼羅)花と
マンジュシャカ(曼珠沙)花とパーリジャタ花を
香を聞(か)ぎて ことごとく能(よ)く知らむ。・・・
天女の著(き)たるところの衣を 佳き香をもって荘厳(しょうごん=飾る)し・・・
天の鼓(つづみ)は虚空の中に 自然(じねん)に妙なる声を出し
天衣の千万億は旋転(めぐりまわ)りて来下(らいげ=降ってくる)するなり。
ー法華経」
東儀恭子画伯は立ち止まらない。
一筋の道を歩むことは同じことの繰り返しではない。人が歩めば道も歩む。
足下の大地も周りの風景も変る。歩むにつれて画境も世界も変わりとどまることがない。
「阿吽」の犬の二作は以前に描かれた絵と同じ構図のように見えながら印象は違った。
かすかな陰影の違いでそれぞれの顔は左右に分かれている。ひとつでありながら別々の顔、別々の心、別々の犬格(人格)がひとつの首の上に乗っている。
松坂屋展で出会った「ボーダーライン」は作家の意図が「阿吽」よりもより明瞭になっている。寝そべった犬の右半分は薄墨色のヴェールの影になっている。ひとつの犬の中に二つの別々の犬格(人格)があるらしい。作家はそれが何だとは言わない。見る者にはそれが何だかわからない。ただ想像をめぐらすばかりだ。謎めいている。そこからドラマ(物語)が始まる・・・
東儀恭子画伯は単独の生き物の顔や肢体を丹念に描いて独自の画境を開いてきた。これまでも即物の写生ではなく作家の繊細な感性や奥深い意思が密かに投影されていたのであったが、今度の二つの展覧会の作品群は画境の新たな展開の予兆にみちているように感じられた。その予兆とは「ドラマ(物語)性」のより明瞭な追求である。静物画、静的写生の限界の壁を乗り越える試み。ドラマ(物語)性を感じさせる、より動きのある絵、複数の生き物がそれぞれの役割を演じ分けながら登場する絵―つまりは作家がかねてよりめざすところの「現代の鳥獣戯画」への道に一歩進み出るだろうとの予感。ないしはファンの一人としての期待感であろうか。
三匹の犬が登場する無言劇のような作品「三つ巴」もこの観点から注目された。ローマ法王庁の枢機卿のようなあざやかな法衣(マント)を着ている。それぞれに気位高く威厳を誇り、互いに和せず、争わず。色彩も構図も極端に単純化されている。なぜか?それは作家の意図がそれぞれの単体を描くことではなく、対比(コントラスト)、つまりは関係、関わりに向けられているからだと考えた。「三つ巴」の場合も作家の意図は見る者にはわからない。謎である。だから見る者は「ドラマ(物語)」の謎解き、迷路の中をさまようことになる。
(この場合も象徴の道具に引っ張りまわされるシンボリズムの絵に堕さないところが、よいのだと思います。何か一つの答えが隠されているとか、直截に暗示すると白けるだけと思います。この場合、謎はどこまで行っても謎のままでよいのだとも思います。境界は微妙で難しいけれども、それとない仄めかしとか画題の言葉とかで・・・感性を刺激するだけでなく思考を刺激する絵というのも魅力的だと思っています)
「夢の手枕」の画題は絵全体を引き締めて決定的な意味を与えている。作家が恐らく心底に秘める平安朝の雅びやかな憧憬の世界へと見る者をいざなう。さり気なく描かれた「山の端の月」や前景の淡い淡い草の色が心にしみます。(こういうさり気ないけれど主題とのドッキリするような対比が作品に深みを与えているように感じています)
毛むくじゃらの、恐らくは置いてきぼりをくってふて腐れた犬はどんな夢をみていたのか?きっと夢から覚めた現実の境涯とは似ても似つかぬ雅びな世界の夢?かの世では烏帽子を被り相聞歌の短冊を手に想いをめぐらす貴公子だったか、はたまた来世への途方もない想いか。(夢には輪廻転生とどこか似ているところがありますからね)
作家はムク犬の甘美な夢の余韻かあるいは定かならざる転生の夢を描こうとしたのか?これもまた謎である。何気ないふうに描かれた絵の向こうに一篇のドラマ(物語)が隠されている。
作品「疾きこと風の如し」は形も色もない、目に見えない風という動きある自然現象を二次元の平面上に活々(いきいき)と捉えていて、これもまた新境地かなと感じられました。
一筋の道を歩みながら画家も画境も変わっていく。前へ前へと進んでいく。
今回も実り多い展覧会でしたね。お疲れ様でした。(路傍の草)2010年6月19日
コメント、いつも有難うございます。物書きさんに文章書いていただけるのは恐縮でもありますが、いつもながらの博識さと文体に、本当に感嘆しております。 私の返信が本当に普通で申し訳ないですm(_ _)m
「謎解き」の下り、興味深かったです。私も絵にはいつも物語を含ませているのですが、それが伝わりやすいのもあれば、伝わりにくいのもあり...
友人との何気ない会話の中で、「ちょっとこれ伝わるかな?位の方が面白いものが出来るよね」と言われたことがあり、私もその通りだな、と思いました。
私の構想は、多くは映像から浮かぶものですが、言葉と一緒になって浮かぶ映像があります。(題名と一緒になって出てくる感じです)そちらの方が割とスムーズに迷わず制作が上手くいく感じがします。
また、言葉は好きなのに今なかなか映像にならない、ということもあります。これは色々まだスケッチなりして、煮詰めないとなかなか形にならないんだろうな、と当分置いておくこともあります。
題名と一緒に出てくる映像は、強くもあり、また主観も激しいので、伝わりにくいこともありますが、絵にした時より強いものになって画面に現れます。そうなったときの自身の絵は、手ごたえを感じることあります。
若い頃好きで読んでいた古文とか、古典文学などが皿になっている感じで、本など最近は読んでない(恥ずかしい限りですが)のですが、言葉の美しさをも含んだ絵を描きたいな、とも思っております。
また展覧会の際にはご案内差し上げます、いつも有難うございます。
重ねてコメント有難うございました!
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