絵描きの、おもに絵 日本画のこと 家の日常のこと。 彫刻家のことも時々。
輝く夏がやってきた。日本列島が猛暑や突然の大雨に右往左往している。そんなある日、日本橋高島屋デパートに「Group Horizon」展を鑑賞に出かけた。そこは雑然とした日常生活とは別世界だった。会場の入り口に犬が寝そべっている。どうやら番犬ではなさそうだ。来客に注意を向けるでもなく自分の世界、自分の思いにふけっている。「黒い犬の夢」という画題の東儀恭子先生の作品である。ゆったりと腹這う犬はこちらに顔を向けてはいるが、何かを見ているわけではない。眠りの中に夢を見ているわけでもないし、白昼夢という言葉もあたらない。自分だけの世界、物思いにふけっている。画面の手前に描かれた若草の明るい緑色が老犬の毛が抜け落ちたざらざらした肌合いとは対比的に残酷なまでに美しい。まるで瑞々しい青春と無残な晩年。ざらっとした粗い筆致によって横たわった犬の体と地面や取り巻く空気がひとつに融けあっている。犬の体の上を、体の中を若草色の風が吹き通っていく。けだるい情景の中で、それだけが犬にも見る者にも救いである。犬偏に青いと書く「猜」は青黒い犬、つまり黒犬のことであり、黒犬は疑り深く警戒心が強く人になつかないという。そこから「猜疑心」という言葉が生まれたと、どこかで読んだ。描かれた黒い犬は警戒心が強いかどうかはともかく、人になついているようには見えない。自分の世界に閉じこもっている。孤独である。若くはない黒犬が見る夢は明るい甘味な希望にみちた明日の事柄ではない。黒犬の夢は遠い追憶の中を漂う。優しかった父母や兄弟姉妹と睦まじく一緒に過ごした幼い頃の幸せな日々・・・幸せな日々は極々短かった。すぐに親兄弟から引き離されて、・・・いろいろなことがあった。時間の薄絹を透かしてみると哀しかったことも悔しかったことも今では何もかもが夢のようにただ甘く懐かしく、切ない。追憶は手が届かない遠い彼方にあるが故に今さらに壊れることも奪われることもない。腹這う老いさらばえた、この現(うつ)し身が本当の自分なのか、それとも澱(おり)のように降り積もった堆積の追憶の中の自分の方が本当の自分なのか、否、そのいずれもが自分であるのか、否々、そのいずれでもなく、そもそも自分なんてないのではないか・・・黒い犬は腹ばったまま動こうとしない。横たえた体の下のひんやりとした地面が黒い犬には今は限りなく優しく親しく感じられる。こういう黒い老犬はどこにでもいる。そう言えば、近所でも時々見かける。会場の内側の入り口のところに東儀先生のもう一つの作品「霊獣」が展示されてあった。思わず、ハッと息を呑む。実に感動的な作品だ。「宝樹」や「隠り国」、「聖」を遍歴した作者のひとつの到達点をこの絵に見る思いがした。中央に描かれた神々しい鹿は神の御使いではない。神そのものであろう。「古事記」中の倭建命(やまとたける)は伊吹の山に向かう途中で出会った白い猪を神自身と知らずに神の使者と見誤り侮ったが故についに命を失うこととなった。「たたなづく 青垣 山こもれる(愛しけやし)倭」に帰りつくことができなくなった。霊獣の見事な角は倭建命が佩(は)いた草薙(くさなぎ)の剣を思わせる。この剣、否、霊獣の角の色の具合を確かめようと立ち位置を変えて眺めたが、輝くばかりで定かには色彩を確かめられなかった。分からない。それこそが神威である。古代から今に至るまで、あらゆる神は善悪、正邪を超え、人間の自己中心的な祈りや期待、思い込みに拘わらない。無慈悲である。小鳥たちもここでは単なる生き物ではない。神属である。小鳥たちは写実ではなく、パターン化され、色彩も抑えられている。神域を充たす平和と静寂、調和(ハーモニー)のシンボリズム。小鳥は空気なのかもしれない。楽の音なのかもしれない。何か観念的な独りよがりな印象ばかりを述べたが、この作品の真の魅力は、いつもながらの毅然とした画面の構成力と色彩やディテールにある。絵の左半分を占める淡い緑が実にいい。白砂にきらめく南国のサンゴ礁の海のような明るい軽やかなグリーン。そして、中央からなだれる深いブルーは、そのサンゴ礁の先からいきなり落ち込む絶壁のクリフからのぞく底知れぬ深海。ギリシャ神話の神々の聖なる色はかくばかりかと思う。気高い峻厳にして畏れ多いブルー。近づいてよく見ると、画面には全体に細かな皺が走り、作家のこだわりが見て取れる。一方、深い森なのに樹木は描いていない。それでいて深閑とした森の空気が感じられ、小鳥の声が聞こえてくる。何もかも描きこむことは「雑」であり、「俗」。感動や思想をあらわに強調することは「稚」であり、「野獣派」的。東儀恭子先生はそうした絵画に背を向けて独自の道を歩んでいることが今回の作品を通じても益々強く感じることができた。これに勝る清々しく嬉しい感動はない。 20130726 (夏天の青人草)
秋の院展のご案内をいただいてから暫くは所用で東京を離れていたのですぐには上野の森に足を運ぶことができませんでした。オリンピック東京開催が決まった数日後に東京都美術館に「秋の院展」を見に出かけました。東儀恭子先生の大作「Crossing」を拝見させていただきました。この交差路は人間の通る道路ではなく、犬たちの出会いの場、或いは鉢合わせの場面。大きい犬二匹と小さい犬二匹がたまたま道で出くわした。子犬たちは緊張しながらも興味津々、大きな犬二匹は強者の余裕かまるで関心がない。だから、喧嘩にはなりそうもない・・・街で暮らす犬たちのありふれた平和な日常生活のひとコマ。さて、私はいつもながら画面の周囲に絡みつくような植物に惹きつけられた。臙脂色というか、赤ワインを滲ませたような暗紅色のすげないまでの淡色が実にいい。源氏物語に出てくる蘇芳の花色を偲ばせる。ゆかしい薄紫の色。色彩そのものに耽溺できるということは、色彩それぞれに独特の官能性と物語り性があるからなのだろうか。色彩は対象の単なる属性でも写生の色ではないとあらためて考えてしまう。こういうふうに単調な色彩を貫くことはたやすくはないはずだ。精緻な計算と感性、毅然たる決意が要るはずだ。葉のフォルムや線も同じくいつもながらリズミカルで心地よい。装飾性は祝祭を希がう、朗らかで明晰な知性から生まれる。真ん中の何も描かれていない大きな空間にも作者の強い意志を感じ取る。事象を切り取って写すのではなく画家が主体となって事象を再構成するという確かな決意を感じ取る。芸術家の眼があり、芸術作品としての世界が創り出されている。多くの作品を見ると門外漢なりにあれこれ考え多くのことを教えられます。本来、空間を活かす、重視するということは日本画の伝統のひとつであるはずなのに他の多くの作品群は空間を単なる余白とみなして空を描くこと以外には空間を残すことを恐れているかのように見える。また、空間を単なる余韻として扱うのも“月並み”のそしりを免れない。いつもながら、多くの作品は在るものを在るがままに、目に見えるがままに描きこもうとしているように感じられました。それは写生力の優劣を見究めるという意味では興味深いのでしょうが、見る立場としてはさしたる芸術的感興は起こりませんでした。多くの作品が雪や月光、夕日の森や遠い山稜のかすれた肌合いなどを題材として絶妙なタイミング、微妙な光、精緻な感性で描いていました。それが日本画の伝統的な画題、手法であることをわかっていても、見る立場からすると、ただ、うまい絵という印象だけに終わるものが多かったというのが実感でした。それだけに東儀恭子先生の作品の明晰な構成力と色彩感覚にあらためて感服いたしました。そのまま、裏手の芸大美術館で開催されていた「興福寺仏頭展」にハシゴをしました。7世紀に鋳造され、落雷と火災で損傷し、頭部だけが昭和初期に奇跡的に発見されたという仏頭を間近に眼にして強い感動を受けました。後の時代の仏像にはない大らかな明るさと力強さがある。ガンダーラ地方のテラコッタの仏たちを思い出しました。その阿弥陀佛は天武天皇の時代に鋳造、建立されたとの説明書を目にして、たまたま、万葉集を読み返していた折りだっただけに、日本の古代文化、文明への憧憬がさらに深まりました。やや時代の若い等身大に近い木彫の12神将の群像も迫力あるものでしたが、私にはそれよりも仏壇の基壇を飾る板彫りの12神将の方により強い感銘を受けました。大らかにデフォルメされて自由自在に躍動している。棟方志功の人物像や仏像の原点はこのあたりかと勝手に推測しました。芸術の秋を満喫した一日でした。これからも先生の力作にお目にかかることを益々愉しみにしております。20130911 残照震草(追伸 このブログののコメント欄がごくマレにしか表示されないのは私のパソコンの設定のせいかわかりませんが、残念至極です。匿名さんがメール添付というわけにも行かず・・・)
Anonymousさま長らく返信が出来ずに大変申し訳ありません。私事ですが、春の個展から10月下旬での大阪の特招会個展まで、小品大作含めて60枚ほど描き、ずっと今年は忙しかったです。忙しいのは良いことなのですが、私の中が少し空っぽになってきました。スケッチなど取材が尽きはじめた、という感じですか… 最後の展示は非常に苦しかったです。現在は中断していた着物の仕事依頼の続行や、小さい作品などの依頼が残るほどでようやっと息抜きしております。家族サービスと色々なもののスケッチをしている毎日です。いつも有難うございます。院展は本当に苦しい中の制作でした。画面真ん中をバッと空けたことは構図上の狙いでしたが、色々な人に驚かれたのが新鮮でした。意外!Anonymousさまは絵の中でも植物を良く注目されていますよね。最近のスケッチではまた植物を描きためています。あと風景も。そのうちお見せすることあるやもしれません、どうかお楽しみのほどを…ご高覧有難うございました。いつも感謝しております。遅くなりましたが、御礼にて東儀恭子
11月は穏やかで快晴の日々が続いていたのに、12月に入ると流石に寒い。26日、着膨れた人々に交じって銀座に出かけた。冷たい雨はことし一番の時雨になった。「Xmas Art Festa」 という統一テーマで銀座のいくつもの画廊が手を組んで歳末恒例の「たいせつなもの展」を開いていた。靖山画廊で東儀恭子先生の作品「凛として」を鑑賞した。赤いバラが一輪。凛としてーそう、まさしく凛として一輪咲いている。黒い背景だが、夜のバラというわけではない。何しろ、下方の地にあたる部分は明るいのだから。黒い背景は暗いのではない。重く沈んでいるのである。重たい、不条理なわけの分からぬものが支配する世界、その中にあってバラはバラだから、ただ真っ赤に咲くだけだ。枯れ残った屈折した葉と茎は私の好きな、いつものかすれたうす緑色をまとっている。そう、バラは一輪、この世界に凛として在るのである。胸にずっしり重く沁みる。画廊を出ると大通りをはさんだ新装なった歌舞伎座の前に年末恒例の出し物「仮名手本・忠臣蔵」の大きな幟が寒風に翻っていた。まさしく師走であった。「初時雨 凛と一輪 赤いバラ」翌日、南青山に出かけてこれもいつの間にか年末恒例の行事になった「サポサポ Project」展を見た。東北大震災を支援する有志の芸術家たちのボランティア活動である。入口近くに東儀悟史先生の「Live Stock」シリーズの作品群があった。家畜だけでなくアフリカ象やカンガルーなどの野生動物が強烈な原色で自己主張をしている。その生き物たちの中には小さな金属のネジで縫合されたものがあった。生き物に対する人間の身勝手な干渉、自然や生命に対する作為、作者の憤りのようなものを感じさせた。同時に、新たなものに挑戦する芸術家魂を感じて嬉しかった。東儀恭子先生の作品は花たち。赤い椿の背景は一転して銀色。赤と銀色の組み合わせに厳しい冬の寒さを感じる。バラは薄いピンクと黄色のふんわりした空気をまとっている。ほんのりと夢見るように優しい。もうひとつの作品は冬の庭。雪がチラつくクリスマスの夜のイメージがわいて来る。何を描いてもそこには東儀恭子先生がいる。そこには繊細な色彩としなやかな感性が横溢している。会場に入る前に都心の上空には今まで見たこともないような黒い雲の塊りが現れていた。会場を出た頃、黒い塊りは濃い薄墨となって空一面に広がっていた。近くの地下鉄の駅に駆け込む前にいきなり激しい雨が降り始めて、雨は大粒の雹に変わった。その黒い雲は私にはなぜか、前日、銀座で見た「凛として咲く赤いバラ」の重く沈んだ背景を思い出させた。20131227 (寒風子)
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4 件のコメント:
輝く夏がやってきた。
日本列島が猛暑や突然の大雨に右往左往している。
そんなある日、日本橋高島屋デパートに「Group Horizon」展を鑑賞に出かけた。
そこは雑然とした日常生活とは別世界だった。
会場の入り口に犬が寝そべっている。どうやら番犬ではなさそうだ。
来客に注意を向けるでもなく自分の世界、自分の思いにふけっている。
「黒い犬の夢」という画題の東儀恭子先生の作品である。
ゆったりと腹這う犬はこちらに顔を向けてはいるが、何かを見ているわけではない。
眠りの中に夢を見ているわけでもないし、白昼夢という言葉もあたらない。
自分だけの世界、物思いにふけっている。
画面の手前に描かれた若草の明るい緑色が
老犬の毛が抜け落ちたざらざらした肌合いとは対比的に残酷なまでに美しい。
まるで瑞々しい青春と無残な晩年。
ざらっとした粗い筆致によって
横たわった犬の体と地面や取り巻く空気がひとつに融けあっている。
犬の体の上を、体の中を若草色の風が吹き通っていく。
けだるい情景の中で、それだけが犬にも見る者にも救いである。
犬偏に青いと書く「猜」は青黒い犬、つまり黒犬のことであり、
黒犬は疑り深く警戒心が強く人になつかないという。
そこから「猜疑心」という言葉が生まれたと、どこかで読んだ。
描かれた黒い犬は警戒心が強いかどうかはともかく、
人になついているようには見えない。
自分の世界に閉じこもっている。孤独である。
若くはない黒犬が見る夢は明るい甘味な希望にみちた明日の事柄ではない。
黒犬の夢は遠い追憶の中を漂う。
優しかった父母や兄弟姉妹と睦まじく一緒に過ごした幼い頃の幸せな日々・・・
幸せな日々は極々短かった。
すぐに親兄弟から引き離されて、
・・・いろいろなことがあった。
時間の薄絹を透かしてみると
哀しかったことも悔しかったことも
今では何もかもが夢のようにただ甘く懐かしく、切ない。
追憶は手が届かない遠い彼方にあるが故に
今さらに壊れることも奪われることもない。
腹這う老いさらばえた、この現(うつ)し身が
本当の自分なのか、
それとも澱(おり)のように降り積もった堆積の追憶の中の自分の方が
本当の自分なのか、
否、そのいずれもが自分であるのか、
否々、そのいずれでもなく、そもそも自分なんてないのではないか・・・
黒い犬は腹ばったまま動こうとしない。
横たえた体の下のひんやりとした地面が
黒い犬には今は限りなく優しく親しく感じられる。
こういう黒い老犬はどこにでもいる。
そう言えば、近所でも時々見かける。
会場の内側の入り口のところに
東儀先生のもう一つの作品「霊獣」が展示されてあった。
思わず、ハッと息を呑む。実に感動的な作品だ。
「宝樹」や「隠り国」、「聖」を遍歴した作者のひとつの到達点を
この絵に見る思いがした。
中央に描かれた神々しい鹿は神の御使いではない。
神そのものであろう。
「古事記」中の倭建命(やまとたける)は
伊吹の山に向かう途中で出会った白い猪を
神自身と知らずに神の使者と見誤り侮ったが故についに命を失うこととなった。
「たたなづく 青垣 山こもれる(愛しけやし)倭」に
帰りつくことができなくなった。
霊獣の見事な角は倭建命が佩(は)いた草薙(くさなぎ)の剣を思わせる。
この剣、否、霊獣の角の色の具合を確かめようと立ち位置を変えて眺めたが、
輝くばかりで定かには色彩を確かめられなかった。
分からない。それこそが神威である。
古代から今に至るまで、あらゆる神は善悪、正邪を超え、
人間の自己中心的な祈りや期待、思い込みに拘わらない。無慈悲である。
小鳥たちもここでは単なる生き物ではない。神属である。
小鳥たちは写実ではなく、パターン化され、色彩も抑えられている。
神域を充たす平和と静寂、調和(ハーモニー)のシンボリズム。
小鳥は空気なのかもしれない。楽の音なのかもしれない。
何か観念的な独りよがりな印象ばかりを述べたが、
この作品の真の魅力は、
いつもながらの毅然とした画面の構成力と色彩やディテールにある。
絵の左半分を占める淡い緑が実にいい。
白砂にきらめく南国のサンゴ礁の海のような明るい軽やかなグリーン。
そして、中央からなだれる深いブルーは、
そのサンゴ礁の先からいきなり落ち込む絶壁のクリフからのぞく底知れぬ深海。
ギリシャ神話の神々の聖なる色はかくばかりかと思う。
気高い峻厳にして畏れ多いブルー。
近づいてよく見ると、
画面には全体に細かな皺が走り、作家のこだわりが見て取れる。
一方、深い森なのに樹木は描いていない。
それでいて深閑とした森の空気が感じられ、小鳥の声が聞こえてくる。
何もかも描きこむことは「雑」であり、「俗」。
感動や思想をあらわに強調することは「稚」であり、「野獣派」的。
東儀恭子先生はそうした絵画に背を向けて独自の道を歩んでいることが
今回の作品を通じても益々強く感じることができた。
これに勝る清々しく嬉しい感動はない。
20130726 (夏天の青人草)
秋の院展のご案内をいただいてから暫くは所用で東京を離れていたので
すぐには上野の森に足を運ぶことができませんでした。
オリンピック東京開催が決まった数日後に
東京都美術館に「秋の院展」を見に出かけました。
東儀恭子先生の大作「Crossing」を拝見させていただきました。
この交差路は人間の通る道路ではなく、
犬たちの出会いの場、或いは鉢合わせの場面。
大きい犬二匹と小さい犬二匹がたまたま道で出くわした。
子犬たちは緊張しながらも興味津々、
大きな犬二匹は強者の余裕かまるで関心がない。
だから、喧嘩にはなりそうもない・・・
街で暮らす犬たちのありふれた平和な日常生活のひとコマ。
さて、私はいつもながら画面の周囲に絡みつくような植物に惹きつけられた。
臙脂色というか、赤ワインを滲ませたような暗紅色のすげないまでの淡色が実にいい。
源氏物語に出てくる蘇芳の花色を偲ばせる。ゆかしい薄紫の色。
色彩そのものに耽溺できるということは、
色彩それぞれに独特の官能性と物語り性があるからなのだろうか。
色彩は対象の単なる属性でも写生の色ではないとあらためて考えてしまう。
こういうふうに単調な色彩を貫くことはたやすくはないはずだ。
精緻な計算と感性、毅然たる決意が要るはずだ。
葉のフォルムや線も同じくいつもながらリズミカルで心地よい。
装飾性は祝祭を希がう、朗らかで明晰な知性から生まれる。
真ん中の何も描かれていない大きな空間にも作者の強い意志を感じ取る。
事象を切り取って写すのではなく画家が主体となって
事象を再構成するという確かな決意を感じ取る。
芸術家の眼があり、芸術作品としての世界が創り出されている。
多くの作品を見ると門外漢なりにあれこれ考え多くのことを教えられます。
本来、空間を活かす、重視するということは日本画の伝統のひとつであるはずなのに
他の多くの作品群は空間を単なる余白とみなして
空を描くこと以外には空間を残すことを恐れているかのように見える。
また、空間を単なる余韻として扱うのも“月並み”のそしりを免れない。
いつもながら、多くの作品は在るものを在るがままに、
目に見えるがままに描きこもうとしているように感じられました。
それは写生力の優劣を見究めるという意味では興味深いのでしょうが、
見る立場としてはさしたる芸術的感興は起こりませんでした。
多くの作品が雪や月光、夕日の森や遠い山稜のかすれた肌合いなどを題材として
絶妙なタイミング、微妙な光、精緻な感性で描いていました。
それが日本画の伝統的な画題、手法であることをわかっていても、
見る立場からすると、
ただ、うまい絵という印象だけに終わるものが多かったというのが実感でした。
それだけに東儀恭子先生の作品の明晰な構成力と色彩感覚に
あらためて感服いたしました。
そのまま、裏手の芸大美術館で開催されていた「興福寺仏頭展」にハシゴをしました。
7世紀に鋳造され、落雷と火災で損傷し、
頭部だけが昭和初期に奇跡的に発見されたという仏頭を
間近に眼にして強い感動を受けました。
後の時代の仏像にはない大らかな明るさと力強さがある。
ガンダーラ地方のテラコッタの仏たちを思い出しました。
その阿弥陀佛は天武天皇の時代に鋳造、建立されたとの説明書を目にして、
たまたま、万葉集を読み返していた折りだっただけに、
日本の古代文化、文明への憧憬がさらに深まりました。
やや時代の若い等身大に近い木彫の12神将の群像も迫力あるものでしたが、
私にはそれよりも仏壇の基壇を飾る板彫りの12神将の方により強い感銘を受けました。
大らかにデフォルメされて自由自在に躍動している。
棟方志功の人物像や仏像の原点はこのあたりかと勝手に推測しました。
芸術の秋を満喫した一日でした。
これからも先生の力作にお目にかかることを益々愉しみにしております。
20130911 残照震草
(追伸 このブログののコメント欄がごくマレにしか表示されないのは私のパソコンの設定のせいかわかりませんが、残念至極です。匿名さんがメール添付というわけにも行かず・・・)
Anonymousさま
長らく返信が出来ずに大変申し訳ありません。
私事ですが、春の個展から10月下旬での大阪の特招会個展まで、小品大作含めて60枚ほど描き、ずっと今年は忙しかったです。
忙しいのは良いことなのですが、私の中が少し空っぽになってきました。スケッチなど取材が尽きはじめた、という感じですか… 最後の展示は非常に苦しかったです。
現在は中断していた着物の仕事依頼の続行や、小さい作品などの依頼が残るほどでようやっと息抜きしております。家族サービスと色々なもののスケッチをしている毎日です。
いつも有難うございます。院展は本当に苦しい中の制作でした。画面真ん中をバッと空けたことは構図上の狙いでしたが、色々な人に驚かれたのが新鮮でした。意外!
Anonymousさまは絵の中でも植物を良く注目されていますよね。最近のスケッチではまた植物を描きためています。あと風景も。そのうちお見せすることあるやもしれません、どうかお楽しみのほどを…
ご高覧有難うございました。いつも感謝しております。
遅くなりましたが、御礼にて
東儀恭子
11月は穏やかで快晴の日々が続いていたのに、
12月に入ると流石に寒い。
26日、着膨れた人々に交じって銀座に出かけた。
冷たい雨はことし一番の時雨になった。
「Xmas Art Festa」 という統一テーマで
銀座のいくつもの画廊が手を組んで
歳末恒例の「たいせつなもの展」を開いていた。
靖山画廊で東儀恭子先生の作品「凛として」を鑑賞した。
赤いバラが一輪。
凛としてーそう、まさしく凛として一輪咲いている。
黒い背景だが、夜のバラというわけではない。
何しろ、下方の地にあたる部分は明るいのだから。
黒い背景は暗いのではない。重く沈んでいるのである。
重たい、不条理なわけの分からぬものが支配する世界、
その中にあってバラはバラだから、ただ真っ赤に咲くだけだ。
枯れ残った屈折した葉と茎は
私の好きな、いつものかすれたうす緑色をまとっている。
そう、バラは一輪、この世界に凛として在るのである。
胸にずっしり重く沁みる。
画廊を出ると大通りをはさんだ新装なった歌舞伎座の前に
年末恒例の出し物「仮名手本・忠臣蔵」の大きな幟が寒風に翻っていた。
まさしく師走であった。
「初時雨 凛と一輪 赤いバラ」
翌日、南青山に出かけて
これもいつの間にか年末恒例の行事になった「サポサポ Project」展を見た。
東北大震災を支援する有志の芸術家たちのボランティア活動である。
入口近くに東儀悟史先生の「Live Stock」シリーズの作品群があった。
家畜だけでなくアフリカ象やカンガルーなどの野生動物が
強烈な原色で自己主張をしている。
その生き物たちの中には小さな金属のネジで縫合されたものがあった。
生き物に対する人間の身勝手な干渉、自然や生命に対する作為、
作者の憤りのようなものを感じさせた。
同時に、新たなものに挑戦する芸術家魂を感じて嬉しかった。
東儀恭子先生の作品は花たち。
赤い椿の背景は一転して銀色。赤と銀色の組み合わせに厳しい冬の寒さを感じる。
バラは薄いピンクと黄色のふんわりした空気をまとっている。
ほんのりと夢見るように優しい。
もうひとつの作品は冬の庭。雪がチラつくクリスマスの夜のイメージがわいて来る。
何を描いてもそこには東儀恭子先生がいる。
そこには繊細な色彩としなやかな感性が横溢している。
会場に入る前に都心の上空には
今まで見たこともないような黒い雲の塊りが現れていた。
会場を出た頃、黒い塊りは濃い薄墨となって空一面に広がっていた。
近くの地下鉄の駅に駆け込む前に
いきなり激しい雨が降り始めて、雨は大粒の雹に変わった。
その黒い雲は私にはなぜか、前日、銀座で見た
「凛として咲く赤いバラ」の重く沈んだ背景を思い出させた。
20131227 (寒風子)
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