3月11日よりの非常事態以来、まだ余震続き、計画的な停電も実施されていますが、10日経っての関東圏は、これが日常に組み込まれつつある状態に。逞しいといえば逞しい。人って。
大きな地震だったので、関東も被災といえばそうなのかも知れないけれど、東北のそれこそ当事者の被災者か、といえばそうでもない。食べるものあるし、寝るところにも困っていない。絵も描いたりしている。ふいに笑っていて、でもかの被災地のことを想うと誰もが悲哀の想いにしばし耽る。そういうバランス。二重人格であるような、躁鬱であるような、そんな感じを関東都内の誰もが持って生活していくんでしょう、しばらくは。
そんな10日間でしたが、ふと気づくと庭のアジサイの新芽の伸びがすごくて。桜も蕾が。一輪だった椿が今10以上は満開過ぎ、落ちようとしている。近所の猫の縄張りももう違っていた。なじみの猫で無くなっていた。
季節は残酷に早い。どんどん進むし、巡る。
2 件のコメント:
東日本大震災のニュースや余震がなお続く卯月初めの1日、
東京・日本橋の三越デパートに春の院展を見に行った。
ここは静かな別世界だった。
東儀恭子先生の「対極図」は数多い作品の中で
入り口のすぐ左側の一番目立つ位置に展示されていた。
「展示の位置」に
俗物のフアンの一人としてまず嬉しくなった。
斑模様の黄色い豹と黒い豹。題して「対極図」。
東儀先生らしいズバリ、どきりとする構図であり、
画題である。
何と何が対極にあるのだろうか?
二匹の生き物は対立し、いがみ合っているようには
私には見えない。
光明と秘めやかな闇。軽快さと重厚さ。精神と肉体。
明晰な理性と
大地に根をおろした定かには規定できない感性。
例えば近所のご夫婦のように
華麗に飛躍、活躍する妻を傍で黙って支えて見守る夫。
対極というと対立する物が二つ並んでいるように
一義的には考えられる。
しかし、本当は二つの物があるわけではない。
「不二」。
本当は一つなのだ。しかも、一つでもない。数のない世界。
一人の人間や一つの事象、一つの世界は
いろいろな矛盾や形容できない多様なものから
成り立っている。
対極、多様と見えて、それがそのまま調和している。
一つなのだ。
それにしても、豹斑の深く沈んだ青は
宋の時代より伝わる天目茶碗の“見こみ”に覗き見る
深い宇宙の闇に浮かぶ数限りない星辰を思い起こさせる。
東儀先生の作品を見るたびに感じることを
「対極図」でもあらためて感じた。
それは強靭な「構成力」ということである。
画界には別の適切な表現があるに違いないが、
素人流に自己流に表現すれば「構成力」。
他の多くの作品も素晴らしかったが、
その多くは対象を忠実に写生したり、
綺麗に仕上げたりすることだけに熱心である。
対象を写している、切り取っているだけで終わっている。
東儀先生の作品は原点が常に画家の心中にある。
その原図に基づいて対象を描きこんでいる。
それは単なる構図という意味ではない。
在るものを再構成して作品の世界を作っている。
芸術の真骨頂は人間の理性と感性を花開かせるもの、
感じさせるものでなければならない。
ギリシャの哲学者プラトンの「イディア」の世界を
地上に具象化するもの、花開かせるもの。
花開くといえば、吉野の桜に先駆けて近所で彼岸桜が可憐な小さな花びらを今を盛りといっぱいにつけている。
さくら、さくら、さくら咲く家のほの灯かり。
さくら、さくら、勝手口の灯かりの消し忘れ、
あ、いつの間にか消えた・・・
(110403 春野をわたる風)
お忙しい中、お越しいただいて有難うございます。今回ご案内遅くなってしまったのですが、先に観にいって頂いたこと知り、恐縮です。いつも貴重なコメントを頂いて、本当に有難うございます。
最近夫婦間で「哲学」があるかないかの作家の話をよくしています。
ぶれない理念を持った人。それが本からの知識の借り物という訳でなく、生き方や嗜好までもそこに絡めて表現していく人。
日本の作家だと画家だと岡本太郎氏、映像作家だと黒澤明氏や宮崎駿氏らの映像表現へのこだわり、徹底度。近代文学で好きな芥川や漱石。
40半ば過ぎてまだそういう表現出来うる人に近づきたく、夢を持ち未来に広がりを感じる自分達がいます。
もうこの住まいに住んであと2年弱で10年、ですがおかげさまでまだまだ新鮮な毎日を送らせて頂いてます。次の作品の展開も見えてきたような感もあります(まだ形にはなっていませんが)。
これからも一層頑張りますので、どうか宜しくお願い申し上げます。
余震続きまだ不安ある日々ですが、元気にお互い過ごして生きたいものですね。どうかお二人ともお体にはお気をつけ下さい。
東儀恭子
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